もう一人の存在
幼い頃の記憶なんて早く忘れてしまえればいいのに。幾度そう願っただろうか。けれど、その記憶は決して消し去ることなどできない。こんな酷い体験をしたのは俺くらいなんじゃないかとさえ思える。
青々と晴れやかな空を眺めていたら、そんな体験もなかったのではないかと思えてくるが、体がそれを覚えている。沁み付いたそれは、きっと一生消えることは無いだろう。乾いた笑いが込み上げてくる。それが今はどうだろう。暖かいベッドに食事、仕事まで与えられた。今まで生きてきた中で、一番良い生活をしていると断言出来る。
「スヴェン、ここに居たのね」
「……また、あんたか」
今、俺が暮らしている邸の一人娘であるフィーア・ベヒトルスハイムが背後から声をかけてきた。フィーアは俺よりも年上だが、この邸から出たことがないらしい。飛んだ世間知らずのお嬢様だ。だからなのか、このホワンホワンした雰囲気がどうも苦手で、つい冷たくあしらってしまう。出会って一ヶ月ほど経つが、まだ慣れないでいた。そんな俺に、
フィーアも不信感を持っているのだろう、どこか距離を感じるのは仕方のないことだ。
「バドが貴方のことを探していたわ」
「ありがとう、すぐ行く」
バドとは、俺を雇ってくれた初老の執事のことだ。この邸のことはすべて彼に任されている。何故なら、フィーアの両親は既に他界しており、この邸で年長者と言えばバドに当たるからだ。
俺は大人を信用していない。けれど、拾われた恩もある。だから、バドのことは多少なりとも信用はしていた。
登っていた大木から飛び降りて、フィーアの横を通り過ぎた。フワリ、と甘い香りが鼻孔を掠め、少しだけ動揺したのはなかったことにしよう。俺はブンブンと頭を左右に振り、邪念を追い払った。
邸のエントランスに向かうと、バドはもう既に到着していた。急いで彼の傍に駆け寄ると、いつもの険しい表情で俺を叱責した。
「仕事中は常に周りを見て行動する様にといつも言っているでしょう」
静かな声音が俺の頭上に降り注ぐ。どうやら休憩していたのがバレていたようだ。俺は素直に謝罪した。仕事を放棄したのは俺の過ちだ。気が抜けていた。頬を叩き、気合を入れ直す。
「まだ食堂の掃除が残っていたでしょう。早く終わらせて皆で昼食を取りますよ」
「はい!」
エントランスを東に抜けると、突き当りに食堂がある。食堂内にはキッチンもあり、ここで専属のシェフたちが料理を作っていた。俺はそれを横目にモップを掴み、床を掃除していく。ここへ来た時に大体の間取りをバドから聞き、自分でも歩いて回ってみた。さすが立派な洋館だ。部屋数は多く、掃除も大変だった。
キッチンの奥に地下へと続く階段があるのだが、ここだけはどうも一定の人間以外の立ち入りを禁じている様子だった。なので、俺は一度も入ったことがない。「貴重な食糧庫だからだ」とバドは言っていた。確かにつまみ食いなんかされた日には、きっとバドはカンカンに怒るだろう。
「早く終わらせて飯にしよ……」
俺は懸命にモップを動かすのだった。
俺達使用人の昼食は、いつも主であるフィーアの後になっている。それは至極当たり前なのだが、使用人の数が多いので、食事はいつも戦場と化していた。食うか食われるか、そのどちらかだけだ。俺は、幼い頃から劣悪な環境に身を置かざるを得なかったので、こんなことはなんてことないが、そうではない奴らは毎日大変そうだ。そいつらに飯を分けてやるほど、俺はお人好しじゃない。
食器を洗うためにキッチンへ入ると、窓から見える木の葉がガサガサと音を立てていた。少し気になったが、先に食器を洗ってしまおうと、シンクの蛇口を捻る。この時期の水仕事は非常に堪えたが、そうも言っていられない。食器を洗い終えて急いでキッチンの真上に当たる部屋へ向かった。ノックをするのも煩わしくて、俺はそのまま部屋へと入る。
「チッ、遅かったか……」
部屋を出て、邸裏へと回った。少し行ったところに湖がある。きっと、彼女が行ける範囲はそれくらいだろう。目星はついていた。
獣道を掻き分けて進む。辺りは薄暗く、昼なのに木々が密集しているせいで太陽の光は届かない。彼女は一度も邸から出たことがないと言っていた。こんな暗い道、一人で歩いて大丈夫なのだろうか。一抹の不安を感じながら、さらに奥へと進む。
段々と道が開けて来て、眼前には、日に照らされて水面がキラキラと光る湖が見えた。
その傍らには、フィーアが鼻歌を口遊んでいた。暢気なものだ。湖に片足を突っ込んで遊んでいる。呆れたものだ。声を掛けようとして、俺は足を止めた。
フィーアの背後に、黒衣を纏った男が近付いている。俺のいる場所からはその顔を伺うことは出来ない。何やらただごとではない雰囲気に、俺は急いでフィーアの元へと駆け寄る。そうして、忍ばせてあったナイフを取り出し、男の背中に突き立てた。
「ぐぁぁぁ!?」
悲鳴を上げた男に驚き、フィーアは後ろを振り返った。そして、男の顔を見て小さく悲鳴を漏らす。地面に倒れてもがいている男をよそに、俺はフィーアに詰め寄った。
「追いかけて来て正解だった。こいつのこと知ってるのか?」
「どうしてスヴェンがここに……?」
「こいつはあんたのことずっとつけてた。心当たりは?」
きっと俺と同じように、フィーアの後を尾行していたのだろう。じゃないとこんな所に来る必要がない。俯いて黙っているフィーアに、俺もそれ以上の追及はしなかった。
「くそっ……!」
男がよろよろと立ち上がり、逃げ出す。後を追おうと足を踏み出す。しかし、それは握られた手によって止められた。俯いているフィーアの身体は、小刻みに震えている。
「行かないで……」
小さなか細い声は、そう呟いた。今にも泣き出しそうな彼女を置いて行ける程、俺も冷酷ではないようだ。フィーアが落ち着くまで、頭を撫でてやる。こうする他、いい方法が思いつかなかった。暫くすると、落ち着いたのか、フィーアは恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとう……」
「別に……怖い思いしたんだから、仕方ないだろ」
「外には、こんなに綺麗な世界が広がっているのね」
「……そう、だな。……あんたはやっぱり、お嬢様なんだよ」
「え……?」
「『セカイ』はもっと、殺伐としてる。本当のセカイをあんたはまだ知らないんだよ。だから、そんな風に言ってられるんだ」
フィーアは困惑した表情を浮かべる。この少女はまだ何も知らない。それは、良いことなのか、悪いことなのか俺には判断できない。けれど、これから先、ずっとフィーアはあの邸から出ないつもりなのだろうか。それは、酷く孤独に思えて、ジリジリと胸が傷んだ。
俺が考え込んでいると、突然フィーアの身体がぐにゃりと力を無くし、地面に倒れた。何事かと抱き止めて、声を掛けた。
「おい! 大丈夫か!?」
暫く呼び掛けていたが、ふいにパチリと瞳が開いた。力強い眼光で俺を見つめる。まるで別人のようで、俺は抱き止めていた身体から手を離そうとした。しかし、それは叶わず、フィーアの腕が背中に回される。俺の首元へとフィーアの唇が近付いてきて、俺はされるがままに、彼女の唇の感触を首筋に感じていた
「わたしはだーれだ? ふふっふふふふ……」
驚いて、声も出せなかった。俺は、唯々フィーアの瞳を見つめる。
「いっ……⁉」
首筋にチクリと痛みを感じた。
「これは、貴方と私の《契約》よ、スヴェン」
そう告げた彼女は、とても楽しそうに声を漏らした。これが、俺と『彼女』の出会いだった。
【完】
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